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Muv-Luv SS脇役 社 霞の場合





 私の記憶は、はっきりとしていません。断片的に途切れていて、その繋がりが、私にもよくわからないのです。

 かろうじて憶えているのはリノリウムのタイルと白い壁。
 清潔な白衣で身を固めた大人たち。
 彼らはいつも私を観察していましたが、あまり私に近寄ろうとはしませんでした。

 そして――。
 私によく似た兄や姉たち――。

 私たちはオルタネイティブ計画の産物。
 人工的なESP発現体なのです。



 私の記憶がはっきりとしていないのには理由があります。
 それは私たちの持つ、特別な能力に起因するのです。

 私たちは皆、個体によって持っている能力の強さや種類が違いました。

 意識読解。
 意識投影。
 千里眼。
 未来予知。

 残念ながら私にはよく思い出せませんが、仲間の中には発火能力や念動力を持つ者もいたと思います。
 共通していたのは、特殊な能力であればあるほどその能力は安定しない、ということでした。
 
 私が得意としているのは意識読解と意識投影です。

 他者の意識の中に入り込み、その者の持つ情報を入手することと、こちらの持つイメージを他者へと発信するということになります。
 仲間の多くもこの能力を持っていました。
 私たちはこの能力を使い、BETAの精神を読み取るために生まれてきたのですから――。


 意識読解と意識投影は似たような技術です。どちらも対象に意識を繋げるところから始まります。

 読解の場合は、繋がった対象の心の中に自分の意識を侵入させていくのです。
 そうして、その対象の考えていることを盗み見てくるのです。

 ただ本来、意識というものは他者の侵入を拒む性質があります。他者の侵入に気付いた意識は、それを排除しようと攻撃してくるのです。
 ですから読解の場合は、自分の意識をできるだけ、小さく、淡く、霞ませることが大切になります。
 できるだけ自我を薄くし、対象に気付かれないないように、注意深く奥に潜っていく必要があるのです。

 そうすれば対象の思っていることや、重要な秘密。場合によっては対象自身が忘れてしまったことすらも記憶の中から拾ってくることができるのです。

 私はこれが得意でした。仲間の誰よりも深いところまで潜ることができました。
 

 この能力を使えば――、当然ですが人間の心も読み取ることができます。
 よく憶えてはいませんが、私の仲間の何人かは、その仕事を専門にしていた者もいたと思います。

 気をつけなくてはいけないのは、深く潜ることばかりに意識を集中しすぎるあまり、自我を限界まで薄くしていくと、自分というものが消えてしまうこともあるということです。
 対象の精神の中で自我が溶解し、相手に吸収されてしまうのです。
 そうなったら――、もう二度と戻ってはこれません。廃人と化してしまいます。
 私たちはそれを行き倒れと呼んでいました。

 意識投影の場合は、対象の意識に潜り込んだ後、自我の中に保存しておいたイメージをゆっくりと放出し、対象にそれを認識してもらう作業になります。
 この時、イメージを急激に解放してはいけません。
 ゆっくりと解放し、できるだけ対象の精神を傷つけることのないようにする必要があるのです。
 上手く投影することができれば、対象に自分の思っていることを見せることができます。
 使い方によっては、行ったこともない場所で道に迷わず進ませることができたり、対象が見たこともない光景を絵に描いてもらうこともできます。

 私たちはこの能力を使い様々な仕事をしていました――、と思います。
 思いますと言ったのは理由があります。
 私はよく憶えていないのです――。

 何故かといえば、機密情報すら盗み見ることのできる能力を持つ私たちの記憶は、定期的に消去されていたからです。

 薬物と催眠暗示。時には電気ショックで記憶を消去されることもありました。

 記憶というものは面白いもので、私には詳しくわかりませんが、短期記憶というものと長期記憶というものがあるらしいのです。
 あらゆる記憶は一端は短期記憶で保存され、そこから長期記憶へと移行されていくのです。

 そして、この短期記憶というものは比較的、簡単に消去することが可能なのです。

 ですから、私たちは仕事を終える度に記憶を消去されてきました。
 自分以外の仲間が仕事をした後もそうです。
 私たちには言葉を使わずとも、意識を伝え合う方法があるのですから――。
 ひとつの個体が知ってしまったことは、全ての個体の記憶を消すことで研究所の皆さんは対応していたようです。

 それでも多少なりとも、その当時の記憶が私に残っているのは、他でもありません。

 私の仲間が覚えていてくれた私の記憶を、私は読み集めてひとつにまとめていたのです。
 仲間同士で記憶を支えあい、お互いのことを補完しながら私たちは生きてきました。
 そうしなければ、自分が誰なのか、何をしているのか、何故ここにいるのかさえわからなくなってしまうのです。

 ただ――、記憶というのは不思議なもので、たとえ同じ出来事でも人によって見え方が違います。
 ですから私の集めた私の記憶というものも、正確には真実のものなのかは、わかりません。
 
 それでも仲間たちの憶えていてくれた記憶は、私にとって宝物だったと思います。



 仲間といる時――。
 私たちの間には言葉は必要ありませんでした。
 
 誰かが楽しいことを思えば、それは自然に伝わり、誰かが寂しい思いをしていれば、誰かが慰めてくれました。
 私も寂しい時に、仲間の誰かに抱きしめてもらったことがあるような気がします。

 でもそれが誰だったかは、憶えていません。
 個体の持つ識別情報は機密レベルが高いので重点的に消去されることになっていたのです。

 だから私には思い出がありません。

 誰かと食堂で何かを食べた記憶はあります。
 でもそれが誰とで何を食べたのかは絶対に思い出すことはできないのです。

 私と仲間たちは、そんなふうにして研究所の中で生活していました。

 そんな仲間たちもハイヴ攻略の度に少しづつ数を減らしていき、最後には誰もいなくなってしまったような気がします。





 いつの頃からか、私はバケモノと呼ばれていました。

 真っ白な小さな個室で一人で生活をしていました。
 食事は一日に三回差し入れられました。
 誰が配っているかは私は知りません。
 小さな窓から差し入れられるだけで、誰も私には顔を見せてくれなかったのです。

 よく憶えてはいませんが――。
 誰かの頭の中を読んでしまい、ひどく怒られたことがあるような気がします。
 多分、それが原因なのでしょう。

 もっともその記憶もほとんど消されてしまい、私には、もう謝ることすらできません。


 廊下の向こうには人の動く気配を感じます。
 階下からは楽しそうに談笑する声が、微かに聞こえてきます。

 でも誰も私に話しかけてはくれません。

 寂しくなって涙がでてしまうこともありました。
 情報投影能力を使い、近くの人を呼ぼうとしたことも何度もありました。

 でも――。
 反応してくれる人はいても結局、誰も私の所に来てくれる人はいませんでした。

 そんなふうにして私は独りで生活していました。

 「誰かいませんか……? 」

 あんまりにも寂しかったので、つい声にだしてみました。
 返事をしてくれる仲間は誰一人居らず、私の声は廊下に虚しく響いて消えていきました。

 記憶のないことの一番辛いことは、独りでいる寂しさを埋めてくれるものが何もないことです。
 仲間がいれば、私たちは抱きしめあうことができましたが、それも今では叶いません。

 何故、私はこんな能力を持って産まれてきたのでしょう?
 白い壁を眺めながら自問します。
 答えをだすことはできません。

 私は普通の人として生まれたかった。
 家族と友達が欲しかった。
 
 特別な能力なんて、欲しいと思ったことはなかったのです。
 












 私は極東国連軍横浜基地に異動することになりました。
 そこに私にしかできない仕事があるのだ――、係官はそう言いました。

 その伝達は内線電話でされました。
 きっと、仕事とはいえ私に近づくのは御免被りたい――、と言ったところなのでしょう。

 私は今まで、命令に逆らったことは一度もありません。
 いい子にしていれば、きっと誰かがここに来て私を褒めてくれると思ったからです。

 でも、ここには誰も来てくれません。
 だから、私はここを出ていこう――、そう思いました。
 ここを出ていけるのなら、何でもします。
 一人はもう嫌です。
 寂しいのは辛いのです。

 私はおとなしく命令に従いました。
 ひょっとしたら、横浜基地には私と会話をしてくれる人がいるかもしれません。

 それは私のたった一つだけの希望でした。




 安全を考慮して、陸路と駆逐艦を使い横浜基地へと向かうことになりました。

 私は研究所の人から預かった資料を鞄に詰め、何もないあの部屋から旅立ちました。
 私物は持っていきません。
 元々、そんなものは何一つ持っていなかったから平気です。

 何人かの護衛の方がその旅には同行してくれました。
 軍用トラックの中で、彼らは私から少し離れた所に座っていました。
 そして私と視線を合わすことなく会話することもありませんでした。

 人は皆、他人には見られたくない色々な過去を抱えています。
 何かに失敗してしまった人や罪を犯してしまった人は、それを見ないようにして生きていきます。
 でも心が読める人間が近くにいると知った時――。

 実際には読まれてはいなくても、人は自分自身の罪深さを自覚してしまうのでしょう。

 疑いようのない事実として、私には他人の心の傷を穿り返すことができます。忘却という瘡蓋を剥がし、生々しいその傷を世界に晒すことができます。
 私はそんなことをしようとは思いませんが、その能力があるのは事実です。

 それが怖いのでしょう。
 だから私は避けられてきました。 

 世界には、こんなにも沢山の人がいるのに私は一人きりでした。
 


 横浜基地に到着するまでは三日かかりました。その三日の間に、私は怖い思いをしました。

 護衛の方の一人が私をちらちらと見て、気にしてくれているようでした。
 他の護衛の方は私には決して近づかないなか、その方だけは親切にしてくださいました。

 正直に言えば私は嬉しかったのだと思います。
 おっかなびっくりとはいえ、誰かに気にかけてもらえているのですから。

 でもそれは間違いでした――。

 軍用トラックが大きく揺れた時でした。
 バランスを崩してしまった私は転んでしまい、その護衛の身体にしがみついてしまいました。

 その瞬間でした。

 私は彼の心の内側を読んでしまいました。

 欲望でした。彼の心の中には欲望が渦巻いていました。

 おぞましく、汚らしく、穢らわしい――。

 その欲望が私に向かって牙を剥いていました。
 彼はその想像の中で私を陵辱していました。
 嫌がる私を組み伏せることを夢想して楽しんでいました。

 私は声を上げて逃げようとしました。走っている車から飛び降りようとしました。
 何人もの護衛が錯乱した私を捕まえようとしました。
 その中にはその男もいました。
 彼の手が私の肩に触れた時――、私は恐怖のあまり、気を失ってしまいました。

 一人でいたいと思ったことは、それまで一度もありませんでしたが、この時は本当に一人になりたかったです。
 欲望の対象にされることが、こんなにも怖ろしいこととは思ってもみませんでした。
 
 一人は嫌いです。私は誰かと一緒にいたかったのです。
 でも……。
 知らない人は怖いのです。
 そして――。
 私には知っている人が誰もいないのです。

 私にとって世界とはそんな所なのです。





















 「……これはまた、随分とカワイイのがでてきたわね……」

 香月博士と初めて会った日のことはよく憶えています。
 少し冷たい感じのする人でしたが、綺麗な人でした。そして――、私に対し害意は持っていませんでした。
 私は少しだけ安心したことをよく憶えています。

 博士はとても不機嫌でした。私に対して怒っているのではありません。他の何かに対して怒りを抱えていたようです。

 「……まったく」
 
 彼女の呟きと供に苛立ちが私の心に伝わってきました。

 「とりあえずテストするわよ――」

 誰もいない狭い会議室の中で彼女はそう言いました。

 ――覗けてる? 覗けているなら頷きなさい。

 彼女は声には出さずに、頭の中でそう言いました。
 私はそれに応えて頷きました。

 ――……ふん……。なるほどね……。どこまで正確に読めるか試すわよ。いいわね――?

 私はもう一度頷きました。

 博士は私に紙と筆記用具を渡してきました。
 私は意識を集中させて博士の思っていることを覗こうとしました。

 複雑な数式が博士の頭の中を流れています。続いて細部まで正確に書き込まれた図面が浮かんできました。
 驚いたことに他の方の思考や記憶とは違っていて、非常に鮮明です。
 普通の人の記憶の中では、擦れてしまっているようなところまで、はっきりと記憶されているようでした。
 私はそれを急いで書き写しました。

 出来上がった数式と図面を博士は入念に観察していました。

 「……数式は全部正解。図面のほうは細部が少し間違っているわね……。というより、社……。アンタ、絵が上手くないわね。というか下手――」

 恥ずかしかったです――。
 絵は確かに得意じゃありません。
 でも、そんなに言わなくてもいいじゃないですか。

 私がそう思っていると博士はニヤリと笑いました。

 「結構――。感情はちゃんと持っているみたいね。……ロボットだったら返品するところだったわ」
 
 どうやら博士は、別の意味で私を試していたようでした。
 そして私は試験に合格したようです。
 私は仕事が終わるまでの間、ここにいられるのです。
 つまり、あの誰もいない部屋には戻らなくてもいいということになります。
 私の周りに誰か生きている人がいるのだ、と感じられる場所にいて良いのだ――。
 
 ……でも仕事が終わったら、またあの場所へ帰らなければならないのでしょう。

 そう思うと私は急に怖くなってきました。
 誰もいないあの場所へ――。誰もイナイ。イナイ。孤独の場所――。
 それだけではありません。
 世の中には嘘を吐いたり、私を傷付けようとしているものが、沢山あることを私はこの旅で知ったのです。
 あの護衛の男のように――、私を穢そうとする者も沢山いるのです。

 急に足元が不安になってきました。
 椅子に座っているのに、このままどこまでも落ちていってしまうような気持ちがしました。
 
 目の前のこの人は私に対し偏見も悪意も持っていません――。
 あるのは私の能力への純粋な興味と、私の活用方法だけです。
 私に頭の中を覗かれることを怖れていない稀有な人なのです。

 だから――、私はこの人に縋り付くしかないのです。

 「……プ……プロジェクションの能力を……まだ見せていません」

 擦れた声で、そう言うのがやっとでした。
 私は言葉を使うのが得意でないので、博士に伝えたいことは直接見てもらう方が良いのではないかと思ったのです。

 「プロジェクション……? あぁ――、情報投影能力ね。うっかりしてたわ――。早速やって頂戴」

 私はおずおずと彼女の手を握りました。
 それから――、深呼吸をして意識を繋ぎ、彼女に私が見せたかったもののイメージを解放していきました。

 白い壁――、誰もいないがらんどうの空間。減っていく仲間たち。絶望と孤独――。ベットと小さな机だけの部屋。
 辛い実験。電気ショックや、脳改造を施される仲間たちの断末魔――。

 彼女が息を呑んだのがわかりました。

 帰りたくないのです。あそこにはもう帰りたくないのです。
 私は涙が出そうになるのを必死で堪えました。
 泣いたら嫌われてしまうのです。 
 だから必死で我慢しました。

 「……社。……もういいわ――」

 どのくらいの時間が過ぎたのでしょうか。しばらくして彼女がそう言って私の手を解きました。

 「……読解も投影もできるけど、その能力は使いたくない――」

 冷たく固い声でした。

 「……困るのよね、あんたの仕事はそれなのよ」

 やっぱり駄目だった――。
 博士は呆れています。
 とっとと仕事を済ませて帰れ――。そう言われると思いました。
 
 「……とは言え四六時中、他人の頭の中を覗いていたら……。反吐がでそうになるアンタの気持ちもわかるわ――」

 世の中、下衆ばかりだからね――。博士はそう言って小さく笑いました。それから真剣な表情を浮かべ――。

 「社、アンタが研究所から持ってきた資料の中にね、面白いものがあったわ――。それを改良すればアンタの能力を少しは抑制できるかもしれない――」

 何ということでしょう――。
 博士の思わぬ発言に私は戸惑いました。

 「アンタの読解の能力を制限できるかもしれない――。……ぜひ、香月博士の手で完成させてくれ――、って書いてあったわ」

 私は驚きました。他の人と同じになれるかもしれないのです。ここにいれば私の夢が叶うかもしれないのです。
 人の持つ隠された欲望や、人を傷付けたいという欲求を、もう見なくてすむようになるのです。

 私はそれが嬉しくて、でもそれが信じきれなくて――。

 頭の中がグルグルします。
 何が起きているのでしょう。
 私はどうなってしまうのでしょう。

 混乱している私に、博士が一言だけ言葉をかけてきました。

 「……社、アンタのために、何とかしようと頑張っていた人たちがいたことだけは、忘れないようにしなさい――」
 
 博士は科学者の顔をされていました。 











 


 案内されたのは地下19階の一室でした。

 私が見たこともない機械がたくさんありました。
 部屋の中央には大きなシリンダーが据え付けてあり、青白く輝く液体がその中に満ちていました。
 そしてその中央に小さな脳髄が浮かんでいました。
 人間の手のひらサイズのそれは、とても儚げでそして酷く寂しい雰囲気を漂わせていました。
 今までに人間の脳は図鑑では見たことがありましたが、本物を見るのは初めてでした。

 「BETAに捕らえられた人間――。人類初の生還者。生体反応ゼロ、生物的根拠ゼロ――だから00ユニットと呼ばれているのよ」

 博士の声が冷たく響きます。

 「こいつは話すことも聞くこともできない――。こいつが誰で、どんな過程を経てこうなったのかもわからない。でも何かを確実に知っている。こいつと話しなさい、社。こいつの頭の中を覗くのよ」


 初めて彼女をリーディングした時のことはよく憶えています。

 彼女の持つ感情が激しすぎて、ほとんど読み取ることができませんでした。
 感情の密度が高すぎて、私の入り込む隙間がないのです。
 
 それでも私は何とか読み取ろうとしていました。

 それまでにも私は様々な経験をしてきました。
 臨終直後の人間からリーディングをしたり、脳死状態の人間をリーディングしたり――、様々です。

 これに近い経験は何度もしているはずなのです。
 
 光の洪水と音の壁。意識を繋げるなり、その二つが私の前に立ちふさがりました。
 
 私という小さな自我が、この脳の中に潜っていくのは、小さな手漕ぎボートで嵐の海に漕ぎ出すのと同じようなものです。

 それほどまでに、この脳の持つ感情は激しすぎるのです。
 それは欲望の嵐でした。
 護衛の人が私に見せた欲とは比べ物にならないほどの激しい欲求――。
 何を破壊してもかまわない――。
 獰猛で攻撃的で――。
 それでいて、それは何故か悲しい感情を孕んでいるのです。

 まるで――。

 赤ん坊が母親を求めて泣いているかのような――。

 私はこの感情を必死に読み解こうとしました。
 この感情を言葉として捕らえようとしました。

 でも私にはできませんでした。
 
 かろうじてできたのは――。

 この人が女性であるということ。
 BETAに対して言いようもない恐怖を感じていること。
 そして――、誰かに会いたがっていること。

 この三つだけが彼女の中から拾い上げることができた情報の全てでした。

 恐怖という暗い光が彼女の感情を包みこんでいます。
 この黒い雪の下に、本当にまだ人間の感情は生きているのでしょうか。
 私にはわかりませんでした。

 でも私は彼女を見続けたかった。
 
 彼女は私がいなければ駄目なのです。
 私がいなければ、彼女は脳という檻の中で永遠に孤独なのです。

 それはどんなに辛いことなのだろうか――?
 それを世界で一番よく知っているのは私なのです。
 彼女の孤独をわかってやれるのも私だけなのです。

 だから私は――。
 だから私は生きようと思いました。
 彼女のために生きようと思いました。

 彼女のその狂ったかのような感情の奔流が治まり、安寧な思いに辿り着くまで私は彼女の傍にいてやろう、と思いました。

 彼女には私しかいなかった。そして私にも彼女しかいなかったのです。
 私たちはお互いに離れては生存することのできない、ひとつの番いなのです。












 その日から毎日、私は彼女と語り合いました。
 語り合うと言っても、一方的に私が聞くだけなのですが……。

 彼女の心の中は、まるで嵐の海のようでした。

 私は直接、海を見たことはありませんが、ビデオでなら見て知っています。
 視界に収まりきらないほど大きく、そして波が不気味に蠕動しているのです。
 きっと怖いところだと思います。

 時折、風が止まったと思えば今度は豪雨です。
 感情は激しく強く――。
 その圧倒的圧力は読解を難しくしていました。

 解っていたのはこれがネガティブな感情であること。彼女は強い欲望をもっていること。
 いくら私が呼びかけても彼女の中の嵐は止まる事なく吹き荒れ続けていました。

 私はその嵐を全身で受け止めながら、嵐の壁の向こうに、微かに見える灯火に向かって声をかけ続けていました。


















 あの日のことはよく憶えています。
 ある意味では、あの日を境にこの世界は動き出したのですから――。

 博士が私に言いました。
 博士にしては珍しく、少しばかり興奮されていらっしゃったと思います。

 「――今からアタシの部屋に来る奴の頭の中を読んで頂戴。嘘か本当か――。全てを読み取って――! 」

 博士が私に人の心を読め、と言ったのはこれが初めてでした。
 博士は00ユニットのリーディング以外の仕事を私にさせることはありませんでしたから。

 やがて博士の部屋に一人の少年が現れました。
 私は隣の部屋から博士の部屋をモニターし、少年の心を読もうとしました。

 驚きました――。

 この人の心の中には私がいるのです。
 それもこの基地に着いてからの私です。

 少年の記憶の中で私は何度も彼と会話をしていました。
 そう――、まるで友達のように――。

 私は彼と博士の会話に注意深く耳を傾けました。
 
 驚くべきことに、彼はこの世界と時間を繰り返していると言いました。
 
 そしてそれは疑うことのできない真実なのです。
 何しろこの私が、彼の記憶の中にいるのですから――。

 私は博士にサインを送りました。彼は本物だ――、嘘を吐いてはいない。
 
 衝撃の事実です。

 私は博士の理論を聞いていましたし、その実験のお手伝いもしていましたが、その私ですら信じきることのできなかった理論の実証例が目の前に存在しているのです。

 私は彼の心をもっと深いところまで読もうとしました。自ら望んで、他人の心を読みたいと思ったのは初めてでした。

 ところが彼の記憶はまるで、薬で消されてしまっている私の記憶のように所々が虫食い状態なのです。
 黒板に大きく描かれた絵の一部を、黒板消しで綺麗に拭き取ってしまったかのようにないのです。

 本人が忘れているだけの――ではなく、不自然なまでに綺麗さっぱりと消えているのでした。






 少年を博士の親友の訓練部隊に配属させると、博士は私の所に駆け込んできました。

 「社――! 聞いたわねッ! スミカよ……、カガミ スミカよッ! 呼びかけなさい……、早くッ! 」

 博士がこんなに興奮しているのを見たのは初めてでした。
 
 ――……カガミ スミカ。

 それが彼女の名前なのかもしれないのです。
 五感を封じられた脳という檻の中で何年も生き続ける――。
 そんなことができる人ならば――。

 シリンダーの前に立ち目を瞑ります。

 ――……スミカさん……。カガミ スミカさん……。

 私は暗い夜の海の向こうに、ほのかに見える小さな灯りに向かってそう呼びかけました。
 何度も何度も――。

 でもそれはあまりにも遠くにあって、私では手が届きそうにありません。
 私の言葉は嵐にかき消されてしまって、そこに届く前に消えていってしまうのです。

 「……社、やり方を変えるわ――。白銀の姿を鑑に投影してみなさい。鑑に白銀を見せるのよ――」

 頷いて、私は先ほどの少年の姿を思い浮かべました。

 少年らしい快活さと――、どこか追い詰められた老人のような悲哀を漂わせるその姿を心の内に浮かび上がらせました。
 そしてその姿を松明にして、再び暗い嵐の海へと飛び込んでいきました。

 その瞬間でした。

 荒れ狂う嵐が止まったのです。
 
 そして――、暗い海の色が暖かいオレンジ色に染まりました。
 まるで蜂蜜を溶かしたかのような暖かな海です――。

 その海の遠くから微かに声が聞こえてきました。
 怯えていて――。
 どこかに隠れていた子供が――。
 物陰から親の姿を確認できたかのように――。

 溢れ出た感情が一気に押し寄せてきました。
 泣いています。
 泣きながらしがみ付いてきます。

 私の持ってきた白銀さんのイメージに、彼女の全ての感情がすがり付いているのです。

 再会の喜びと――。
 何でもっと早く来てくれなかったのかという怒りと甘え――。
 絶対に離れたくないという恐怖と、離しはしないという欲望。

 全ての感情が混ざり合って一つの大きな感情になって、白銀さんのイメージに抱きついています。

 私は――。
 その純粋な美しさに心を打たれていました。

 ――私は今までに、こんなにも明け透けに感情を表したことがあったでしょうか――? 
 
 私は博士にこう告げました。

 「……この人は鑑 純夏さんです――。……あの人に会いたがっています。……悲しんでいます。会いたい……って」

 私は堪えきれずに涙を流していました。
 














 それ以来、私は常に純夏さんを見続けていました。
 白銀さんと交流を図り、彼の特徴を捉え、それを純夏さんに与えました。

 あの日以来、純夏さんの心の中にいくつもの変化が生まれました。
 時折ですが、いつもの夜の嵐の海ではなく、オレンジ色に輝く海の時間があるのです。
 そんな時はわずかではありますが、純夏さんの記憶が見える時がありました。

 その記憶は全て、白銀さんと過ごしていた日々の思い出でした。

 寝ぼすけな白銀さんを起こす純夏さん。
 白銀さんにご飯を食べさせてあげる純夏さん。
 白銀さんから小さなウサギの人形を貰う純夏さん。

 どれもこれも幸せな思い出ばかりです。
 私はその思い出に溺れ続けました。
 私にはない――、甘く優しい記憶。 
 幸せなのです。
 彼女の記憶に触れることは私にとって神聖な作業でした。
 私の心の空洞を埋めてくれる大切な思い出なのです。

 彼女の思い出を味わい、白銀さんにそれを与え、返ってきた反応をまた彼女に与える――。
 私は純夏さんの思い出が欲しかった。
 空っぽの私を埋めてくれるものが欲しかったのです。

 毎日ずっと純夏さんの前にいました。
 毎朝、白銀さんを起こしにいきました。

 白銀さんは面白い人です。
 私なんかより、ずっと大人の人のはずなのに時々すごく子供っぽくなります。
 私にはそれは、とても可愛らしく思えました。

 純夏さんも同じことを思っているようでした。
 私たちは二人して、白銀さんの行動を見て楽しんでいました。

 ある日、そんな私を見て博士が言いました。

 ――社、頑張ってくれているのはありがたいのだけど……。

 「深遠を覗き込む者は、同時に深遠にも覗き込まれている――。気をつけなさい……」
 
 のめり込み過ぎる私の身を案じてくれたのでしょう。博士にはそんな、ぶっきらぼうな優しさがあります。
 でも、私は博士の忠告に従うつもりはありませんでした。

 ずっとずっと純夏さんの声を聞いていたかった。
 純夏さんに白銀さんの姿を見せてあげたかった。

 彼女の心の海はとても暖かくて――。
 私はそれに浸っていたかった。この思い出に包まれていたかった。

 これこそが、空っぽだった私を埋めてくれるものなのです。

 そうです。
 私は純夏さんになりたかった。

 純夏さんになれれば――。
 どんな世界にいても、大好きな人が私を捜してくれるのです。

 私はそれが羨ましかった。
 どうしようもないほどに羨ましかったのです。
















 白銀さんの教官であった神宮司軍曹が戦死されました。

 私には白銀さんがひどく傷ついているのは、すぐにわかりました。
 心に入ってしまった傷から感情が漏れ出していたからです。
 まるで罅の入ってしまった花瓶のように、傷口から感情は止め処なく溢れ出していました。
 
 彼には逃げる場所がありました。
 暖かい――、純夏さんや仲間の皆さんが穏やかに暮らすBETAのいない世界。
 そこに彼は逃げる権利があるのです。

 彼は、もう嫌だ――、と言いました。
 こんな狂った世界にはいたくない――。

 私は彼に逃げては欲しくなかった。彼にここにいて欲しかった。
 純夏さんを置いていかないで欲しかった。私を置いていかないで欲しかった。
 私は彼を止めたかった。

 でも――、私は言葉を上手く使うことが苦手なのです。

 「……弱虫」

 私が言えたのはそれだけでした。

 彼は私の前から姿を消してしまいました。









 白銀さんを送り出した後、博士が私に言いました。

 「社、アンタは憶えておきなさい――。白銀の逃げた先ではね、多分……、まりもが死ぬわ。鑑もね……。白銀に近い人間ほど影響をうけるでしょうね……」

 白銀さんのいなくなった空間に向かって、博士は話し続けていました。
 
 「おまけにね――。場合によっては50億人の人間が地獄を見ることになるわね……」

 博士の話を私は簡単に理解できました。これは博士の提唱する因果律量子論です。

 比較的に近い世界同士は、その因果を交換しあう可能性があるのです。
 そして何より、白銀さんは因果導体なのですから――。
 こちらで起きていることが、あちらでも起きる可能性は非常に高いのです。
 そうだとすれば、これも博士の計画の一つだったのでしょうか?

 「向こうの世界でも、まりもを殺し、鑑を破壊する――。……砕け散った鑑の精神のカケラがこちらに漂着でもしてくれれば、それは鑑を復活させる鍵になる――」

 私には博士にかける言葉を見つけることができませんでした。

 「……社、これは、あたしの罪よ。アンタは――。アンタだけはそれを憶えておきなさい」











 博士の言葉を信じ、私は白銀さんが戻ってきてくれることを信じようとしました。

 博士には白銀さんの動きをできるだけ追うように言われました。
 それはとても辛い作業なのです。
 跳躍した白銀さんを追いかけるのはとても難しく、探し当てるのが一苦労なのです。
 それに不安なことがたくさんありました。

 向こうの世界で、さらに悲しい体験をしている白銀さんを私は見たくなかったのです。

 それと――。
 幸せそうな彼の姿も見たくはありませんでした。



  

 
 純夏さんがようやく、肉体を得ることができました。
 長い間、魂の牢獄に監禁されていた彼女には、自分が肉体を再び手に入れたことが理解できていないようでした。
 純夏さんの心の混乱はまだ続いていました。

 感情は相変わらず安定せず、肉体を得たことでかえって酷いハレーションを精神の中で頻発させていました。
 BETAに対し怒りの感情を爆発させたかと思うと、今度は反転し、際限のない鬱に陥る。
 純夏さんの精神は未だに地獄を彷徨っていたのです。


 長い間、純夏さんを見てきました。
 だから、私ならば純夏さんをここに連れ戻すことができるはずなのです。
 
 空っぽだった私の中には純夏さんが一杯、詰まっています。
 私はそれを使い、精一杯呼びかけました。

 私は無力でした。
 残念ながら、私の呼びかけは純夏さんには届かないのです。
 何度も何度も呼びかけました。

 私はどこかで気付いていたのかもしれません。

 純夏さんを元通りにできるのは一人だけだと。
 彼が帰ってこなければ意味はないのだと――。

 私は彼に帰ってきて欲しかったのです。
 
 純夏さんのためにも。
 
 そして――。

 私のためにも。














 彼が帰ってきました。
 彼は大きく傷ついて――、その傷を受けて磨り減るのではなく、その傷を乗り越えて帰ってきました。
 消耗し、精神を腐らせるのではなく、前向きに物事に対応しようとしていました。

 彼が変わったことを私は感じました。
 彼はもう――、私とは違います。弱虫ではありません。

 彼は純夏さんを助けようと必死でした。
 ウサギの人形を作り、純夏さんと一緒に食事をとり、自分を見失っている純夏さんを何とかしてあげたい、と一生懸命でした。

 私はその姿を見て喜びました。
 彼が私の傍に帰ってきてくれたのですから――。
 彼がそこにいてくれることは、私の喜びであり、わずかではありますが純夏さんが、いつもと違う反応を見せてくれたことも嬉しかったのです。
 そうです。純夏さんが良くなることは私にとっても嬉しいことのはずなのです。

 純夏さんは順調に回復していき、二人は多くの犠牲をだしながらも佐渡島でハイヴの破壊に成功するという偉業を成し遂げました。

 ただそこで何か問題が起きたようでした。

 純夏さんは精神に衝撃を受け、安全装置が働き、意識を失ってしまいました。
 白銀さんは酷く心配をしていました。

 私も心配していました。
 私にとって純夏さんは一番、近い存在なのですから――。

 でも結局、純夏さんは白銀さんと博士のお蔭で安定を取り戻していきました。
 
 私には何もできることはありませんでした。



 私は一体、何者なのでしょうか?

 純夏さんはもう――、私がいなくても大丈夫です。
 白銀さんは純夏さんのもとへいきました。

 もう私の手を借りる必要はないのです。

 これだけの苦労を重ねてきた二人なのだから、私は祝福してあげなければいけません。
 でも――。
 胸の奥がちくりと痛むのです。

 今まで感じたことのない感情――。
 該当する言葉は知っています。 
 でも、それを言葉にしてしまうことを私は躊躇いました。
 
 そこにある感情から私は必死に目を逸らしました。
 私は、その想いに厳重に鍵をかけ、心の奥底に澱んでいる泥の中に埋めてしまうことにしました。

 私は純夏さんが好きです。
 彼女は隠すことなく私に全てを見せてくれました。
 彼女の思い出は私の中の空白を埋めてくれました。
 彼女の思い出を共有することで、私は何もない自分を支えることができるようになりました。

 それなのに何故でしょう?

 彼女を羨ましいと思ってしまうのは……。

 何故、彼女だけが求められるのでしょう。

 サンタウサギを貰ったこと。
 一緒にどこかに遊びに行ったこと。
 喧嘩をしたこと。仲直りをしたこと。
 私にも白銀さんとの思い出は全部揃っているのに――。

 何故、彼女だけが人に求められるのでしょう?
 何故、私は誰にも好かれないのでしょう?

 能力を持っているからでしょうか?
 ――違います。
 この能力は純夏さんも持っています。

 では何故なんでしょうか?
 
 どんなに考えても答えは出てきません。

 愛し合う二人を感じながら、私は独りでした。
 やっぱり私は独りなのです。

 








 横浜基地がBETAの襲撃を受けた時、私は地下19階にいて、メンテナンスベッドを使い純夏さんの洗浄作業をしていました。
 こんなに深いところにいるのに、震動が少しづつ伝わってきました。
 この基地は大丈夫なのでしょうか。
 私は不安に駆られていました。

 ――霞ちゃん、ここを開けて……!

 ODLという羊水の中に浮かぶ純夏さんが、そう私に訴えかけてきました。
 洗浄作業はまだ終わってはいません。
 訴えに従うことは純夏さんの生命を危機に晒すことになります。
 私は躊躇しました。

 ――いいの……! 開けて霞ちゃん! でないと大変なことになる……!

 大変なこと? 何のことでしょうか。
 それこそ今、横浜基地はBETA襲撃という大変な局面を迎えているのです。
 これ以上、何が起こるというのでしょう。
 私は迷いました。

 ――霞ちゃん!! 

 純夏さんは焦っていました。
 私に伝わってくる気持ちは圧力すら感じさせるものでした。

 ――全部、話すから! ちゃんと見てねッ! 

 唐突に純夏さんが精神を繋いできました。
 純夏さんの考えていることが、圧縮されて一気に流れこんできました。

 BETAの群れ。反応炉へ――。
 純夏さんの持つ情報が反応炉を介してカシュガルに――。
 BETAの持つ情報が増え、様々なことに対処が――。

 脳から脊髄にかけて電流が走りました。
 これはとてつもない事態です。

 純夏さんは理論上、この世界の全てのコンピューターにアクセスができます。
 セキュリティを突破し情報を盗むことができます。戦術機の弱点や戦車の欠点なども知っています。
 彼女の持つ情報の全てが、カシュガルのオリジナルハイヴの反応炉に伝わってしまう可能性があるのです。

 しかも、問題はそれだけではないのです。

 純夏さんはあらゆるコンピューターのセキュリティを突破し支配することができます。

 もし仮にオリジナルハイヴの『あ号標的』がそのことに気付き、反応炉を使って純夏さんを支配しコントロールすることができるのであれば――。
 人類は全てのコンピューターをBETAに押さえられてしまう可能性すらあるのです。

 怖ろしいことに純夏さんはODLの中で、そのことに気付いてしまったのです。

 私は大至急で洗浄作業を中止し、ODLを抜き純夏さんを洗浄装置から取り出しました。
 洗浄が不十分なため、純夏さんの身体にはまるで力が入っていません。

 ――霞ちゃん、香月先生のところへ……。

 純夏さんの意識にはまだ疲労の色が見えましたが、それでも彼女は歯を食い縛って私に言いました。

 ――香月先生に会って反応炉を破壊しないと……!

 それは純夏さんが自分で自分に下した死刑宣告でした――。




 私は世界一の愚か者です。

 あれだけ長い間、彼女を見続けていたのに、彼女の本質を見抜くことができなかったのです。
 それどころか純夏さんに嫉妬し醜い感情を持ち、あまつさえそれに向き合うことなく、その感情を暗い海の底に沈めていました。
 醜い愚か者です。
 救いようのない存在です。



 反応炉が破壊された時、純夏さんは速瀬中尉の死を悼むと同時に、どこか安堵したかのような――、達観した表情を浮かべていました。

 反応炉は修復のできない状態まで破壊され、純夏さんの生命はすでにカウントダウンに入っています。
 その数字は決して増えることなく、死神の足音が少しづつ近づいてくるのが聞こえてくるようでした。
 
 それでも彼女は微笑みを浮かべることができました。

 強い。
 本当に強い人です。

 自分の罪から目を逸らすことなく、恥部を晒しながらも前向きに行動する――。

 私は間違っていました。
 私のするべきことは純夏さんに憧れ、嫉妬することではなく、純夏さんを見習い、自分を強く素直に成長させることだったのでしょう。

 長い長い遠回りを経て、私はようやくそこに思い至りました。




 



 「タケルちゃんに嘘を吐くことになっちゃったな……」

 出撃前の最後の訓練を始める前に彼女はそう呟きました。
 自分の生命が残りわずかであることを、純夏さんは白銀さんに告げようとはしませんでした。
 私もそれを白銀さんに伝えることはしませんでした。

 私は純夏さんが自我を取り戻した後、純夏さんをリーディングすることを極力避けてきました。
 二人のプライバシーを侵害したくなかったのです。

 ――むしろ、純夏さんと意識を繋げることで、自分の奥底にある感情を純夏さんに見られてしまうことを怖れていたのかもしれません。

 「霞ちゃん、聞いてくれる……。私ね、怖ろしいことをしてしまったの……」

 純夏さんが私に向かってその心情を吐露します。
 私は黙って純夏さんの懺悔に耳を傾けました。

 彼女は白銀さんにではなく、私に聞いて欲しいようでした。

 悪いことをしてしまったら謝りたい――。
 許してもらえるまで何でもしたい――。

 純夏さんの独白は続きました。

 それは人間の欲望の深さを表した出来事だったのかもしれません。

 愛している人を苦しめて――。
 苦しめて苦しめて苦しめきって――。

 それでも、その人が自分のもとに来てくれるまで、それを繰り返させる。

 他の人と愛し合ってしまった現実を消去して――。
 思い出のヒトカケラすら残さぬようにして繰り返させてしまった。

 本能に近い自我がしてしまった、許されることのない行動。
 純夏さんはその罪と向き合っていました。

 誰かに許しを乞いたいのでしょう。
 でも、存在すら消されてしまった者たちにはそれは不可能なのです。

 だから彼女は私に許しを乞いて泣いたのでしょう。
 並行世界の過去を見通すことのできる私に――。

 私たちはお互いを抱きしめあっていました。

 彼女と私は一つではありません。

 どこまでいっても、私と純夏さんは別人です。
 他人と完全に同一の存在になることは誰にもできません。

 人は一つにはなれないのです。

 でもだからこそ――。
 人は抱きしめあうことができるのでしょう。

 私は純夏さんと、こんな関係が結べたことが嬉しかった。
 彼女と私は――。

 友達であって、家族であって――。
 
 特別な存在同士なのです。








 この訓練が終われば、彼女はXG-70dに接続されてしまいます。
 そうなると純夏さんは白銀さんと直接会話はもうできなくなります。

 だから私は休憩時間に席を外しました。
 二人きりにしてあげたかったのです。
 それがこの二人の――、二人だけの最後の時間になるのですから。

















 皆が嘘を吐いていました。
 白銀さんを守るために嘘を吐いていました。
 私も嘘を吐きました。
 白銀さんを守るためです。

 嘘を吐くことがこんなに辛くて、そして優しいことだったとは、私は知りませんでした。

 先ほど、榊少尉と彩峰少尉の気配が消えました――。
 その直前に大きな爆発が確認できました。
 私には二人が自爆したであろうことがわかりました。

 御剣少尉が白銀さんと会話をしています。
 純夏さんの能力の後押しを受け、強化された私の能力で御剣少尉の心が見えます。

 御剣少尉は心の中で白銀さんに謝っていました。
 私と純夏さんはそれを白銀さんには伝えませんでした。

 それこそが彼女たちの願いなのですから――。

 BETAの力は強大でした。
 私たちは数十万のBETAの中をわずかな味方と供に進んでいきました。

 珠瀬少尉と鎧衣少尉の気配も消えてしまいました。
 彼女たちも白銀さんには絶対に気付かれないようにして、その生命を散らしていきました。











 
 私たちは多大な犠牲をだしながらも主広間に到達することに成功しました。

 青白い光がハイヴの中に満ちています。
 その中央に私たちの敵――、『あ号標的』の姿が見えます。

 私は無機質な意思というものを初めて感じました。

 そこには喜びも悲しみもありません。
 あるのは義務に対する行動の意識のみ。
 きっと機械の気持ちを読むことができれば、同じことを感じるかもしれません。

 ……いえ――、やはり機械とは違います。

 彼らは止められなかった私の行きつく先の姿なのかもしれません。
 空っぽな存在なのです。

 彼らとの接触は純夏さんの精神的外傷を刺激しました。

 白銀さんと会話を交わす最中も、『あ号標的』は純夏さんから大量の情報を奪おうとしていました。
 純夏さんはその魔の手から逃れようと必死でしたが、恐怖という泥が両足に絡み付いて振り切ることができません。

 御剣少尉も同様です。
 少尉の搭乗する武御雷の持つS11を警戒したのでしょう。
 『あ号標的』は純夏さんを捕らえた時と同じ手段を使って、御剣少尉を支配しようとしました。

 それでも――。その圧倒的な精神攻撃でさえ、御剣少尉を穢すことはできませんでした。
 御剣少尉が白銀さんへの想いを武器にしてBETAと戦っていたのを私は感じることができました。

 御剣少尉の放った最後の一言は、白銀さんと純夏さんの精神を解放し――。
 白銀さんは引き金を引くことができました。
 
 白銀さんは、大切なものを自分の手で消失させなければならなかったのです。




 脱出の衝撃は予想以上のものでした。
 後で記録を見直してみたら、博士の予想した6Gよりも強いGがかかっていました。

 私が意識を失う直前に純夏さんが話しかけてくれました。

 ――色々ありがとうね、霞ちゃん……。あたしの記憶を置いていくからね……。

 小さな声でした。
 お姉さんのような声でした。

 ――……霞ちゃんは独りじゃないよ……。でもね……。

 











 意識を失っている間に夢を見ていました。
 無重力の中でぷかぷかと浮きながら不思議な夢を私は見ていました。

 純夏さんが、自分の持つ記憶の全てを私に置いていってくれたのです。

 その量は膨大なもので、全てを見返そうとするならば、きっと純夏さんが生きてきた時間と同じ時間が必要になるだろうと思えました。

 でも――。

 私はあることに気付きました。
 違うのです。
 純夏さんの残してくれた思いでは私の想像とまるで違うのです。

 小さな頃、サンタウサギを貰ったことや、喧嘩をしたこと。仲直りをしたことや、一緒に遊びにいったこと――。
 それらも大切に保管されています。

 でも純夏さんが一番大切にしていた思いでは――。
 この三日間のわずかな思い出なのです。

 丘で告白したこと。
 二人で抱き合ったこと。
 出撃前のわずかな時間の思い出。

 作られたばかりの思い出こそ、純夏さんがもっとも愛おしく思っている記憶なのです。

 ――霞ちゃん、思い出を大切にすることは、すごく良いことだけど……。

 ――新しい思い出を作っていくことのほうが、ずっとずっと大切なんだよ……!

 もう二度と目覚めることのないはずの純夏さんの声が聞こえてくるようでした。







 2002年1月2日  横浜基地





 彼がいました。
 桜並木の中に彼の背中が見えました。
 
 桜の木に何か話しかけているようです。

 もうすぐ最後の時を迎えるのですから、きっと別れの言葉なのでしょう。
 彼の仲間と恋人と――、そして彼が救った世界とのお別れです。

 彼と話をしたくて博士を引っ張ってきた私でしたが、ここにきて彼に何と声をかければいいのか見当もつかなくなってしまいました。
 結局、私は香月博士が声をかけるのをじっと待っていました。

 彼はこの世界の行く末を心配していました。
 凄乃皇の中で私に語った気持ちをまだ持っているようでした。
 


 最後の時――、私はそれまでに味わったことのない感情で満たされていました。

 「私……平和になったら……必ず海を見に行きます」

 その後、自分が彼に向かって何と言ったのか思い出せません。

 ……いいえ、本当は思い出そうとすれば思い出すことはできると思うのです。

 でもその思いは――。
 綺麗な箱の中にそっとしまって、大切に保管しておくのが一番良いように私には思えるのです。
 私はその宝箱の上に新しい思い出を積み重ねていくのです。
 純夏さんから貰った思い出より、多くの思い出を作ること――。
 これは純夏さんから私への宿題です。

 やがて彼の姿が光に包まれて消えていきました。
 彼がこの世に存在した証を何一つ残すことなく――。

 博士の予想によれば今回の転移は、因果の交換ではなく因果の消失になりますから、因果の軽いところから消えてなくなるとのことでした。
 徐々に皆の記憶が洗い流され、やがて彼の記憶の全てが消えていくのでしょう。

 それを止めることは誰にもできません――。

 よく頑張ったわね、社――、香月博士が桜の樹を眺めながら、ぽつりと言いました。

 もう泣いてもいいのよ――、博士はそう付け加えました。

 きっと博士も寂しかったに違いありません。
 博士も寂しそうな顔をしていましたから。

 それから私たちは、しばらくの間そこで立ち尽くしていました。
 ゆっくりと時間は過ぎていきました。風が優しく吹いてくれました。
 
 やがて博士が私の頭に手をのせて言いました。

 「帰りにPXに寄っていきましょう。オバちゃんに言って何か甘いモノでも作らせるわ――」

 博士がこんなことを言うのは、とても珍しいことなんです。
 私は少し驚いて思わず、博士の顔を見返してしまいました。
 すると博士は、すこし拗ねたような――もしくはテレたような感じでこう言いました。

 「……言っとくけど、社。アタシはこの基地の中で二番目に偉いのよ。すっごく偉い人なのよ。餡蜜のひとつやふたつ、いつでも調達できる立場にいるのよ! 」

 そしてにやりと笑って――。
 踵を返し、基地に向かって歩いていきました。

 その背中は力強くありました。
 背筋がしゃんと伸びていて、ずっと遠くの未来を見据えて博士が歩き出したのが私にはわかりました。

 ――私はこの人に付いていこうと思います。今は博士の手伝いをしようと思います。

 博士の行く道はこれからも障害だらけだと思うのです。
 ですから私の能力が必要になる場面も、まだまだあると思うのです。

 私は博士を助けてあげたいのです。

 私は私から逃げずに、私のままで強くなりたい。
 それが今の私の目標なのです。

 そして世界が落ち着いたら――。
 私は絶対に恋をしようと思います。

 素敵な男性と出会い、その人と恋をします。
 海に行って、一緒にご飯を食べて、色々な話をします。
 
 そして、いつかその人と結婚して子供を産みたいと思います。

 子供の名前は、もう決めてあります。
 
 そしてその子供たちと、あの人たちが残してくれた世界で生きていきたいと思います。

 それが――。

 それが私にできる、仲間への恩返しだと思うのです。

 博士が振り返り、私の名前を呼んでくれました。
 基地の上空の茜色の空には往還船が着陸態勢に入ったのが見えます。

 基地には今、様々な訪問者が訪れているのです。
 国連幹部や米軍士官。各国の報道陣に帝国軍関係者――。
 これからどんどん忙しくなるのです。

 なぜなら――、世界は前に動きだしたのですから。

 夕闇の中、すでにいくつかの建物には照明が灯されています。
 私は博士の背中を追って走り出しました。
 その背中はまだまだ遠いですけれど、いつか必ず追いついてみせます。
 




 たとえ彼がどんな遠い世界にいたとしても、私には彼を見つけることができます。
 もう白銀さんと話すことは決してできないけれど――。

 私だけは絶対に彼のことを忘れません。

 


 ――こうして私の初恋は終わりました。


























 ――いつかどこか――



 私には幼い頃の記憶がありません。

 事故にあって失くしてしまったのだ、と祖父母は言います。
 それが本当かどうかは、残念ながら私にはわかりません。

 実のところ、私にそう語る祖父母も、本当の祖父母であるかもわかりません。
 肌の色も髪の色も違いますし、私には小さな頃の写真が一枚もないのですから――。

 本当のことは私にはわかりません。

 ただ――。
 なんとなくですが、私はある日突然、この世界に生まれてしまったような気がするのです。

 これもまた事故の影響なのでしょうか――?






 夢を見ました――。

 ロシアではないどこかの異国なのでしょう。
 坂の多い街で私は暮らしていました。
 桜という綺麗な花が咲いていました。



 夢を見ました――。

 まるでSF映画のような夢です。
 荒廃する世界の中で、追い詰められた人類が戦っている夢です。
 私はその夢が怖くて仕方ありませんでした。



 夢を見ました――。

 夢の中で、私は日本人の女の子でした。
 何故かはわかりません。
 私は隣の家に住んでいる、幼馴染みの男の子のことが大好きでした。




 夢を見ました――。

 機械に囲まれた暗い部屋の中で私は生活していました。
 部屋の中央には大きなシリンダーがあって、そこには人の脳が浮いていました。
 なんだかとても可哀想で、私はいつもそれに話しかけていました。
 ある日、あの幼馴染みの男の子が遊びに来てくれて、私にあや取りを教えてくれました。


 いつの頃か――、私にはこれが本当に夢なのか、それとも現実に起きたことなのかわからなくなってしまいました。









 誘いがあったのは日本の大学からでした。

 国際化の一環として、提携しているロシアの学校からの特待生を引き受けるということでした。
 私もその交換留学生の候補に入っていました。

 何故かはわかりませんが、私の成績は常に良かったのです。
 どんな難しい問題が出されても、私には以前に教わったことがあるような気がしていました。

 私は『日本』という言葉に魅かれました。
 その言葉は夢を見るようになって以来、すごく懐かしく私の心に響くのです。
 私の記憶にはない父親が日本人だったからかもしれません。

 祖父母は――、私の日本行きに、あまり良い顔はしませんでした。
 でも、ある日それを認めてくれました。

 ――運命なのかもしれない。

 お爺さんは寂しそうな顔でそう言いました。

 ――いつか、必ず帰ってきなさい。

 お婆さんは優しく言ってくれました。




 誰も知っている人のいない異国に一人で行くという経験は、臆病な私にとって、とても大変なことでした。

 飛行機が離陸した時、急に寂しくなって、私は泣いてしまいました。

 日本の空港には、私の入学する学園の職員の方が待っていてくれました。
 私は学生寮というところに入る予定になっているのです。

 到着した時間が遅かったので、その日は食事をして、すぐに解散ということになりました。

 あてがわれた部屋はベッドと机以外はまだ何も届いてはおらず、私は不安になってしまいました。
 お気に入りのウサギがなかったら、声を上げて泣いていたかもしれません。
 これだけは手荷物として連れてきて正解でした。


 その夜、私の見た夢は不思議なものでした。

 たくさんの――。
 たくさんの私がいて、そして笑っているのです。
 口々に、良かったね――、と言ってくれました。
 不思議な夢でした。

 自分がたくさんでてくる夢なんて初めて見ました。







 初めて登校する時はとても緊張しました。
 もともと人見知りの気がある私です。
 祖父母が最後まで心配していたのも無理はありません。
 昨日の職員さんに連れられて学園長に挨拶をしに行きました。
 日本の学園なのに学園長はインドの方でした。

 なんだかとても頼りになりそうな……、それでいて他人の話をまるで聞かないような、不思議な雰囲気のある方でした。

 それから担任の先生を紹介されました。
 すごく優しそうな方でした。そして、ちょっぴり頼りない感じの人でした。

 残念ながら、と言いますか、やっぱりと言うのでしょうか。
 存在感の薄い私は彼女に忘れ去られてしまったようです。

 担任のはずの彼女は、他の二人の転校生のところに行ってくると言って、出掛けたまま戻ってこないのです。
 私は一人、職員室の前の廊下で立ち尽くしていました。
 何をしたらいいのか、わからなかったからです。
 廊下には太陽の光が差し込まず、冷え切っていてロシアの寒さを連想させました。


 しばらくすると廊下の向こうから鼻歌を歌いながら女の先生がやってきました。

 見覚えがあります――。この人には夢の中であったことがあるような気がしました。
 なんか悪の科学者みたいな人です。

 でも夢とは少し違います。

 夢の中のこの人は、いつも難しい顔をしていました。
 何かを紙に書いては、それをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てていました。
 時々、誰にもわからないようにして泣いている姿を見たことがありました。

 その夢とはまるで違う――、上機嫌な顔でこちらに向かって歩いてくるのです。

 そして私に話しかけてくれました。
 嬉しかったです。
 不安な時に、声をかけてもらえるのは本当にありがたいことです。
 日本語で『ありがとう』という言葉は、もともと『滅多にない』という意味の言葉であったということは私は勉強して知っていました。
 この女性の親切に対してそう感じてしまうのは、それが原因なのでしょうか?

 私が事情を話すと、その女性は邪悪な笑みを浮かべました。
 思わず背筋に怖気が走りました。
 それからその女性は、私を教室まで連れていってあげると言いました。
 どうやら悪意は私ではなく、他の方に向けられているようでした。
 私はほっとため息をつきました。

 なんだか――、この人は敵に回したらいけない気がしたのです。









 教室へ向かう廊下――。

 一歩ずつ教室に近づく度に心臓がドキドキしてきました。
 期待と不安が交じり合って、私の心臓を急かすのです。

 どうしてなのでしょう――?
 何かの予感がします。

 教室の入り口の扉が開けられました。
 クラスメイトになる人たちの目が、一斉に私を見つめています。

 怖い――。

 白状してしまえば、私はまた泣きそうになってしまいました。

 でも負けてはいけないのです。祖父母に宣言したのですから――。
 私は弱虫ではないのですから――。

 担任の先生が、私を連れてきてくれた女性にやり込められていました。
 その様子がとても楽しそうで、私の気分も少しだけ楽になりました。
 なんだかこれが、この二人の正しい関係のような気がするのです。
 




 教室には――。

 夢で見たことのある顔が沢山ありました。

 一番、前に座っている女の子。
 鈴がよく似合います。

 長いお下げ髪で眉毛の逞しいメガネの人。
 多分、あの人は学級委員長さんだと思います。

 とりわけスタイルがよく大人しい感じの人。
 きっと突拍子もないことを言い出しそうです。

 男の子みたいな元気な女の人。
 空気を読みそうにありません。

 見るからに運動神経抜群そうな女の人。
 この人はまともな感じです。

 よく似た雰囲気の双子の女性。
 二人とも高貴な感じがします。

 なかでも――。

 私の瞳は二人の男女に吸い寄せられました。

 夢で見た幼馴染みの男の子と――。
 
 夢の中では私だった女の子が――。

 その二人が私を見ていました。






 その瞬間――。
 私には全てわかりました。

 私の見ていたものは夢ではないのだと――。
 私の見てきた世界の数だけ、世界は存在するのだと――。

 色々な世界がありました。

 怖ろしいバケモノに殺されてしまう世界がありました。
 別の惑星に逃げ延びた世界がありました。
 あの二人と――、そしてここにいる仲間と一緒に、敵の本拠地に乗り込んでいった世界がありました。

 でも――、それがどんな世界であっても、あの男の子が私の傍にいてくれました。


 あの男の子はとても苦しんでいました。
 色々な間違いもしました。
 大切なものを傷付けたり失くしてしまったりもしました。

 でも一生懸命に生きていました。
 精一杯に人を愛し、勇気を持って戦っていました。
 それはどんな世界の彼でも、みんな一緒でした。


 そしてその横にいる女の子――。
 今の私にならわかります。
 あの人は私が見つめていたシリンダーの中の脳の正体です。



 あの人は私に全てを見せてくれました。
 だからこんなにも懐かしいのでしょう。

 あの人もとても苦しんでいました。

 いくつもの世界であの人は大好きな少年とすれ違っていました。
 いくつもの世界であの人は大好きな少年の大切なものを奪ってしまいました。

 少女はそれをとても後悔していました。


 そしてとうとう――。

 少年と少女は再会し――。




 「私、鑑 純夏。席が隣になったのも何かの縁だね。よろしく! 」

 少女は元気でした。とてもとても元気でした。
 まるでお日様のような笑顔で私に話しかけてくれました。


 「オレ、白銀 武。よろしくな、社! 」
 
 少年の声は耳に懐かしいものでした。

 元気でお人好しな――。
 私が他人の心を読める、と知った時でもまるで変わらない――。
 そんなことはまるで気にしないほど明け透けで――。

 我慢しようとしていた涙が勝手に溢れだしてしまいました。

 
 ――少年は私を霞ではなく社と呼びました。

 どうやら少年には、あの世界の記憶は残っていないようです。
 少年の大切なものの全てと引き換えに、世界を救ったあの思い出を――。

 少年は何一つとして憶えていないようでした。

 私はそれが少しだけ悲しかったのです。



 ――……でもこれでいいんです。

 きっと――。

 それはきっと――。

 彼女が濾し取ったに違いありません。

 本当は彼女も憶えていて欲しかったでしょう。

 自分を愛してくれたことを――。自分を救ってくれたことを――。自分を選んでくれたことを――。

 その全てを――。


 でも彼女はそうしませんでした。

 そうです。

 少年はとても優しい人ですから――。

 他の仲間たちとも愛し合った記憶が残っていたら――。

 優しすぎる少年は、誰も選ぶことができなくなって――、きっとそこから一歩も動けなくなってしまいます。

 だから彼女は――。

 そして私がココにいるのは――。

 大好きな人たちと一緒にいられるのは――、彼女がきっと私を……。

 「……ぅぅ…………っく……うぅっ……あり……がとう……っ……ございます……うぅ……」

 涙がもう止められません。
 頭の中がグチャグチャです。

 私が泣いたことに純夏さんが驚いています。

 白銀さんが私を泣かせたように見えたのでしょう。

 クラスが急に賑やかになってしまいました。

 先生方も騒いでいます。

 楽しく――、賑やかに――。


 ――どうやら白銀さんはモテモテ君らしいです。
 恋愛原子核というらしいです。

 いつの間にか、白銀さんの隣の席争奪バトルが始まってしまいました。

 「……正々堂々、お互い頑張ろうねっ! 」

 純夏さんの声が教室に木霊しました。
 多分、これも彼女が本当にやりたかったことなのでしょう。

 だからこの世界の私も――。






 この世界の私に、よその世界の私に何かを伝える能力はありません。
 でもきっと、よその世界の私は――、今の私を見てくれているに違いありません。

 だから報告しなければいけません。

 いくつもの世界で、泣いて、笑って、戦って、一生懸命に生きている私に――。






 私の――、私たちの大好きだった白銀さんは――。

 



 今、笑っています。













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